偽りの関係から生まれる本物の絆。『ラブカは静かに弓を持つ』安壇美緒が描く、孤独と再生の物語

誰にも言えない傷を抱えながら、日常を演じ続けている人はどれほどいるのだろう。安壇美緒による『ラブカは静かに弓を持つ』は、そんな現代を生きる私たちに、痛みと再生の物語を静かに差し出す。

『ラブカは静かに弓を持つ』/安壇美緒

主人公・橘樹は、少年時代のある事件によって深海の悪夢に苛まれながら生きてきた。彼が勤める全日本音楽著作権連盟から命じられたのは、音楽教室への潜入調査。著作権法違反の証拠をつかむため、身分を偽ってチェロ講師・浅葉のレッスンに通い始めるが、その嘘から始まった関係が、凍りついていた橘の心を溶かし始める。

武器はチェロ、潜入先は音楽教室

本作の最大の特徴は「スパイ×音楽」という独創的な設定だ。一見相容れないこの二つの要素が、驚くほど自然に溶け合っている。橘が抱えるトラウマ、潜入という行為の後ろめたさ、そして音楽がもたらす癒し。公式サイトでは、作家・村山由佳が「優れた演奏を聴き終えたかのような感動が胸に満ちてくる」と評している。音楽の持つ力を、言葉の力で見事に描き切った作品なのだ。

著者・安壇美緒は、2017年に『天龍院亜希子の日記』で小説すばる新人賞を受賞し、2020年の『金木犀とメテオラ』が書店員から熱い支持を受けたロングセラーとなった実力派。本作では2023年本屋大賞第2位、第25回大藪春彦賞受賞と、数々の栄誉に輝いている。声優・斉藤壮馬も「深く潜れば潜るほど、主人公と自分を重ね、浅葉先生に救われ、突き刺される」と推薦文を寄せた。

嘘から始まる、本物の出会い

この物語が問いかけるのは、人間関係の本質だ。橘は嘘をつくために音楽教室に通い、師である浅葉や仲間たちと出会う。しかし、その偽りの関係の中でこそ、橘は本当の自分を取り戻していく。私たちは日常で、どれほど「本当の自分」を隠して生きているだろう。仕事での顔、家族への顔、友人への顔。橘の姿は、現代を生きる私たち自身の鏡なのかもしれない。

ページをめくるごとに、橘の心が少しずつ開いていく様子が、まるでチェロの音色のように胸に響いてくる。法廷に立つ時間が迫る中、橘はどんな選択をするのか。公式情報ではその先は語られていないが、作家・篠田節子が「内向的な青年の冷めた視線に映し出された世界が、次第にみずみずしく光に満ちた世界に変わっていく」と評したように、この物語には確かな希望が宿っている。

今日も誰かに合わせた顔で生きている人へ。チェロの弓が奏でる音色が、あなたの凍った心も静かに溶かしてくれるかもしれない。

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