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怒声や拳を振り回すことで道が開けると信じている人は、どれほどいるだろう。SNSには過激な言葉が溢れ、疑心暗鬼が人間関係を蝕んでいく。そんな時代に、夏川草介は『スピノザの診察室』で、まったく異なる強さのかたちを提示する。

主人公の雄町哲郎は、京都の地域病院で働く内科医だ。かつて大学病院で数々の難手術を成功させ、将来を嘱望された凄腕医師だったが、最愛の妹を亡くし、一人残された甥と暮らすために地域病院での勤務を選んだ。飄々としたその佇まいの裏には、深い哲学が宿っている。
著者・夏川草介は長野県で地域医療に従事する現役医師であり、『神様のカルテ』で2010年本屋大賞第2位に選ばれた実力派作家だ。本作について、彼はこう語っている。「医療が題材ですが『奇跡』は起きません。腹黒い教授たちの権力闘争もないし、医者が『帰ってこい!』と絶叫しながら心臓マッサージをすることもない」。それでも、いや、だからこそ本作には、派手な演出よりもはるかに大切なものが描かれている。
勇気と誇りと優しさを持つこと。そして、どんな時にも希望を忘れないこと。医師として20年間、命と向き合い続けた著者が辿り着いたのは、このシンプルな真理だった。哲郎は言う。「たとえ病が治らなくても、仮に残された時間が短くても、人は幸せに過ごすことができる。できるはずだ」。この言葉は、医療現場だけでなく、私たちの日常にも深く響く。
本作は2024年本屋大賞ノミネート作であり、第12回京都本大賞を受賞している。書店員からは「何度も鼻の奥がつーんとして物語に抱き締めてもらった気がする」「ガツガツしたりギラギラした生き方が溢れる現代、そうではない自分や環境にどうしたらいいのか迷うものにとって、哲郎の佇まいはお手本として示された」といった声が寄せられた。
タイトルにある「スピノザ」とは、17世紀オランダの哲学者だ。哲郎は彼の思想を胸に、患者や甥と向き合っている。哲学書というと難解なイメージがあるかもしれないが、本作はあくまでエンターテインメント小説として一気読みできる作品だ。京都の町を舞台に、町の人たちとのふれあいを通じ、生きることの本質が深く優しいまなざしで綴られていく。
大学准教授の花垣が送り込んだ愛弟子・南茉莉は、当初哲郎に不信を抱いていたが、彼の確かな腕と哲学を目の当たりにして、次第に尊敬の念を抱くようになる。そして物語の終盤、哲郎はかつての古巣である大学病院へと足を踏み入れることになるのだが、その展開については、ぜひ本を手に取って確かめてほしい。
声を荒げなくても、拳を振り上げなくても、人は強くいられる。むしろ、本当の強さとは、誰かのために静かに立ち続けることなのかもしれない。『スピノザの診察室』は、そんなことを教えてくれる一冊だ。